フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)
1821年11月11日〜1881年2月9日(59歳)
ロシア帝国モスクワ出身。
国籍=ロシア。
小説家、思想家。
代表作は『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』など。
トルストイ、ツルゲーネフと並ぶロシアを代表する文豪。
名言=「神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。」
『ドストエフスキー』の名言・格言
心の迷いを消してくれる。
数々の名言を連発しているドストエフスキーさん。
その中でも『ドストエフスキー』の名言をご紹介していきます。
真の紳士は、持てる物をすべて失ったとしても感情を表してはならない。
お金はまったく紳士の関心の外にあることであり、気にかける価値もない。
ある社会の文明の発達の度合いは、刑務所に入ってみることでわかる。
楽園は我々一人ひとりの内にあるのです。
それは今私の内にもあるのです。
人間の後半生は、通常、前半生で蓄積された習慣のみで成り立つ。
人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。
完全な自由というものは、生きていても生きていなくてもまったく同じになったとき、はじめて得られるものなんです。
苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである。
絶望のなかにも焼けつくように強烈な快感があるものだ。
ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。
人は笑い方でわかる。
知らない人に初めて会って、その笑顔が気持ちよかったら、それはいい人間と思ってさしつかえない。
左翼は主として無神論の問題である。
無神論に現代的な肉付けをした問題である。
地上から天に達するためではなく、天を地上へ引き下ろすために、神なくしてたてられたバビロンの塔だ。
一番簡単で、いちばん明白な思想こそが、いちばん理解し難い思想である。
恋の悩みや嫉妬はすべて退屈のなせるわざなのだ。
惰性に押し潰されたのだ。
神が存在しないならば私が神である。
希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。
苦しむこともまた才能の一つである。
金が何よりも卑しく、しかも厭わしいのは、それが人間に才能まで与えるからである。
人類の最も偉大な思考は、意志をパンに変えるということである。
苦痛と恐怖を征服した人間が、神となるのです。
そのときにこそ新しい生がはじまる。
新しい人間が生まれる。
すべてが新しくなるのです。
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。
文明のおかげで人間がより残忍になったとはいえないとしても、前よりも残忍さが醜悪になったことは確かだろう。
人間は卑劣漢として生きることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。
人間は清らかに死なねばならない。
女、女こそ男を完成させる唯一のものである。
金を持っている人間は、貧乏人がそのはかない運命を訴えることを聞くのが大嫌いである。
「私にはその行為に責任があるのだろうか?ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだら、あなたに責任があるのです。
愛のないところには、良識もまた育たない。
思想は感情のなかから生まれる。
そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。
あの言葉はもちろん、思わず口からこぼれたのだが、思わず言っただけによけい重大なのだ。
夫が妻にとって大事なのは、ただ夫が留守の時だけである。
私は何か善を行おうと思いながら、そこに喜びを感ずることができる。
また同時に、悪を行いたいとも思い、そこにも喜びを覚えることもできる。
もちろん金は絶対的な力である。
と同時に、平等の極致でもある。
金の持つ偉大な力は、まさにそこにあるのだ。
金はすべての不平等を平等にする。
利口な女と嫉妬深い女とは、おのおの異なった、まったく別個なものである。
したがって、どんなに利口な女でも、同時に嫉妬深い女になることができる。
善い人とは、強い人たちのことではなく、誠実な人たちのことである。
人間というものは時として、何にそそのかされて我を押し通すのか、自分でも分からぬことがあるものだ。
思いやりこそは最も重要な、そしておそらくは全人類の唯一の生活の規範なのだ。
他人に尊敬されたいのなら、自分自信を敬うがいい。
自分自身に敬意を払うことによってのみ、他人はあなたを敬うようになるだろう。
人間には愛がありさえすれば、幸福なんかなくったって生きていけるものである。
真実を語る者は機知のない人間だけである。
みんなのために自発的にいのちを捨てること、みんなのために十字架にのぼり、火刑の火の中に入ることは、個性が最も強度に発達したときに初めてできることである。
問題は時間にあるのではなく、あなた自身にあるのです。
神様が時間を少ししか下さらず、一日に僅か24時間しか割り振ってくださらなかったもんだから、悔い改めることはおろか、十分に眠る暇もありゃしない。
感情は絶対的である。
そのうちでも嫉妬はこの世で最も絶対的な感情である。
しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、たとえ今までのところ、その建物にわずか一粒の砂を運んだにすぎない人でも、必ずや心の渇きをいやしてくれるはずである。
僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。
人間的なあつかいをすれば、神の似姿などとうの昔に消えてしまったような人をさえ、人間にすることができる。
女にとっての復活は、あらゆる破滅からの救いと更生は、愛のなかにある。
人間、人間は哀れみなしには生きていけない。
人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものなんだ。
人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めることである。
つまり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。
堪え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て。
これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです!
幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。
人間のできる唯一のことは、自分自身が精神的に成長することです。
決して一か八かというきわどいところまで進んではいけない。
それが夫婦生活の第一の秘訣である。
よき時代は天から降ってくるものではなくて、わたしたちが自分でつくり出すものです。
それはわたしたちの心の中にあるものなのですよ。
理想主義者と現実主義者は、彼らが誠実で寛容でありさえすれば、その本質はおなじく、人類への愛であり、その対象はおなじく、人間であり、違っているのは、対象を表示する形式ばかりである。
他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。
他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちはあなたを思い出してくれます。
人間という奴はいつでも、人に騙されるよりは自分で自分に嘘をつきたがるものなのだ。
そして、無論、人の嘘より自分の嘘の方を余計に信じるのだ。
神と悪魔が戦っている。
そして、その戦場こそは人間の心なのだ。
新しい一歩を踏み出すこと、新しい言葉を発することは、人々が最も恐れることである。
人生は苦痛であり恐怖である。
だから人間は不幸なのだ。
だが今では人間は人生を愛している。
それは苦痛と恐怖を愛するからだ。
苦痛こそ生活なのだ。
苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろう。
一杯の茶を飲めれば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。
青春は、それが青春という理由だけで、もう清らかなのです。
自分はこの目のまえに立っている犯罪者とまったくおなじような罪人である。
いや、自分こそ、この目のまえに立っている。
人間の犯罪に対し、だれよりもさきに重い罪があるのだと、みずから認識しないかぎり、この地上には犯罪者を裁くことのできる者は存在しないのだ。
金こそは
- 取るに足らぬ人物を第一級の地位に導いてくれる唯一の道である。
そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮らし、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ。
本当の真実というものはいつでも真実らしくないものだ。
真実をより真実らしく見せるためには、どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。
だから人間はつねにそうしてきたものだ。
人生で何よりも難しいのは、嘘をつかずに生きることだ。
そして、自分自身の嘘を信じないことだ。
地獄とは何か、それはもはや愛せないという苦しみだ。
「人類に対する愛」という言葉は、自分が心の中でつくりあげた人類に対する、つまり己に対する愛である。
誰も彼もがお前を見捨て、もう力ずくでもお前を追い払おうとしたら、そのときはひとりきりになって、大地にひれ伏し、大地に接吻し、大地を、お前の涙でぬらしなさい。
思想は常に人間よりも現実的である。
あらゆる堕落の中で最も軽蔑すべきものは、他人の首にぶらさがることだ。
夫婦や恋人同士の問題には決して口をだしてはいけない。
そこには世間の誰にも分からない、二人だけしか知らない一隅があるのだから。
人が子供を持つのは、たとえ自分は死んでも、子供たちが生涯自分の感情や考えを持ち続けてくれるからさ。
謙虚な愛は、暴虐よりずっと効果の多い怖ろしい力である。
愛情に満ちあふれた心には、悲しみもまた多いものである。
良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。
太陽におなりなさい。
そうすれば、誰もがあなたを仰ぎ見ることでしょう。
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。
ただそれだけの理由なのだ。
ほんとうに人間はだれでも、すべての人に対し、すべてのことについて罪があるのです。
人びとはただそれを知らないだけです。
娘の恋は母にとっては死である。
神がいなければ、すべてが許される。
もし他に方法がなければ乞食になってもいい。
しかも乞食になったらその日から、手に入ったお金は自分のためにも、家族のためにも、無駄なことに絶対に浪費しないという徹底的な粘り強さ - これさえあれば、人間は誰でも金持ちになれるものである。
幼年時代の思い出から得た神聖な貴重なものなしには、人間は生きてゆくこともできない。
人間は従順な動物である。どんなことにも馴れてしまう存在である。
自分も生き、他人をも生かすようにする。
金は鋳造された自由である。
どうか偶然なんてことをあてにしないでください。
偶然のない人生というのもあるのですから。
娘が自分で惚れた男というのは、父親の目にはいつだって一番つまらない男に見えるものだ。