牧野富太郎(まきの とみたろう)
1862年5月22日〜1957年1月18日(94歳)
土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)出身。
国籍=日本。
「日本の植物学の父」と称される植物分類学者。
名言=「雑草という草はない。」
『牧野富太郎』の名言・格言
心の迷いを消してくれる。
数々の名言を連発している牧野富太郎さん。
その中でも『牧野富太郎』の名言をご紹介していきます。
私は天性植物が好きだったのが何より幸福で、この好きが一生私を植物研究の舞台に登場させて躍らせた。
何事も心が純正でかつ何時も体が健康で、自ら誇らず、他をねたまず、水の如き清き心を保持して行くのは、神意にかなうゆえんであろう。
少し位知識を持ったとてこれを宇宙の奥深いに比ぶればとても問題にならぬ程の小ささであるから、それは何等鼻にかけて誇るには足りないはずのものなんです。
花は黙っています。
それだのに花は何故あんなに綺麗なのでしょう。
何故あんなにも快く匂っているのでしょう。
思いつかれた夕など窓辺に薫る一輪の百合の花をじっと抱きしめてやりたい様な思いにかられても、百合の花は黙っています。
そして一寸も変らぬ清楚な姿で、ただじっと匂っているのです。
学位や地位などには私は、何の執着をも感じておらぬ。
ただ孜々(しし)として天性好きな植物の研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが生涯の目的でもある。
私はむしろ学位など無くて、学位ある人と同じ仕事をしながら、これと対抗して相撲をとるところにこそ愉快はあるのだと思っている。
人生まれて酔生夢死(すいせいむし)ほどつまらないものはない。
大いに努めよや、吾人!
生きがいあれや吾人!
青年は是非酒と煙草をやめて欲しい。
人間は健康が大切である。
われらは出来るだけ健康に長生きをし、与えられたる使命を重んじ、その大事業を完成しなければならぬ。
身心の健全は若い時に養わねばならぬ。
大学を出て何処へ行く?
モウよい年だから隠居する?
トボケタこと言うナイ、われらの研究はマダ終わっていないで尚前途遼遠(ぜんとりょうえん)ダ。
マダ自分へ課せられた使命ははたされていないから、これから足腰の達者な間はこの闊(ひろ)い天然の研究場で馳駆(ちく)し、出来るだけ学問へ貢献するのダ。
今日戦後の日本は戦前の日本とは違い、脇目もふらず一生懸命に活動せねばならぬのだから、老人めく因循姑息(いんじゅんこそく)な退嬰(たいえい)気分は一切放擲(ほうてき)して、幾ら老人でも若者に負けず働く事が大切だ。
私はまだ学界のために真剣に研究せねばならぬ植物を山のように持っているのに、歳月は流れわが齢余すところ幾ばくもない。
感極まって泣かんとすることが度々ある。
草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年
私は飯よりも女よりも好きなものは植物ですが、しかしその好きになった動機というものは実のところそこに何にもありません。
つまり生まれながらに好きであったのです。
今では私と花との恋は、五十年以上になったが、それでもまだ醒めそうにない。
私は草木の栄枯盛衰を観て人生なるものを解し得たと自信している。
植物を愛することは、私にとって一つの宗教である。
花に対すれば常に心が愉快でかつ美なる心情を感ずる。
故に独りを楽しむ事が出来、あえて他によりすがる必要を感じない。
故に仮りに世人から憎まれて一人ボッチになっても、決して寂寞(せきばく)を覚えない。
実に植物の世界は私にとっての天国でありまた極楽でもある。
われら人間はまずわが生命を全うするのが社会に生存する第一義で、すなわち生命あってこそ人間に生まれ来し意義を全うし得るのである。
私は従来学者に称号などは全く必要がない、学者には学問だけが必要なのであって、裸一貫で、名も一般に通じ、仕事も認められれば立派な学者である、学位の有無などでは問題ではない、と思っている。
人間は足腰の立つ間は社会に役立つ有益な仕事をせねばならん天職を稟(う)けている。それ故早く老い込んではオ仕舞だ。
わが姿たとえ翁と見ゆるとも
心はいつも花の真盛り
私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。
あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。
朝な夕なに草木を友に
すればさびしいひまもない
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
私は幸い七十八歳の今日でも健康には頗(すこぶ)る恵まれていますから、これからの余生をただひたすらわが植物学の研究に委ねて、少しでもわが植物学界のために貢献出来れば、と念じているばかりです。
人間に思い遣りの心があれば天下は泰平で、喧嘩も無ければ戦争も起るまい。
故に私は是非とも草木に愛を持つ事をわが国民に奨めたい。
草木は私に取っては唯一の宗教なんです。
私は標品整理完了の暁には、その一部を日本植物学界のために遺し、また他の一部は欧米の植物学界のために寄贈し、以て世界を利せんことを念願としている。
これから先も私の死ぬるまでも疑いなく私はこの一本道を脇目もふらず歩き通すでしょう。
雑草という草はない。