【作家】夏目漱石(なつめそうせき)の代表作・三部作|生い立ちと人生について

書籍

夏目漱石は明治・大正期の日本の近代文学を代表する作家です。

慶応3年(1867)1月5日、江戸牛込馬場下横町 (現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれました。高校・大学の講師・教員や朝日新聞の小説記者を経て、『吾輩は猫である』以降は作家業に専念。

『坊っちゃん』などは西欧・近代の個人主義と通俗的な考え方の風刺を喜劇で描きながらも、後期は『こころ』『道草』『明暗』など人間の心理面を深堀りする作品を生み出しました。後年は自分の小さな心より、自然に任せて生きる東洋的な悟り「則天去私」の考え方を理想としました。

夏目漱石について概略

  • 名前:夏目漱石(なつめそうせき)、本名:夏目金之助(なつめ きんのすけ)
  • 何で有名?:『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』などの作品がある、明治・大正期の日本の近代文学を代表する作家。日本の文学史では「(ロマン的)余裕派」などと呼ばれる。
  • 生年:慶応3年(1867)1月5日
  • 没年:大正5年(1916)12月9日
  • 出身地:江戸牛込馬場下横町 (現在の東京都新宿区喜久井町)
  • 最終学歴: 東京帝国大学英文科・大学院卒業(現在の東京大学)
  • 代表作:『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』『明暗』(未完)など

夏目漱石の評価。どうして国民的作家になったのか?

※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」の利用規約に基づき使用。

東京帝国大学を卒業し教師の経験を経てロンドン留学した夏目漱石。そこで近代主義への嫌悪感を抱き、日本人が失敗する可能性を見た漱石は、それを『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』でユーモラスに描く風刺からスタートしました。

後年は『それから』や『こころ』によって、エゴイズムや個人主義に葛藤する日本人の内面を描き続けています。当時主流の自然主義と別の流れを行く作風は、「(ロマン的)余裕派」と呼ばれました。

『坊っちゃん』『こころ』など夏目漱石の作品の多くは、日本の国語の教科書に採用されています。また昭和59年(1984)~平成19年(2007)まで日本の千円札の肖像でもありました。どうして夏目漱石はここまで国民的な作家になったのでしょうか。

江藤淳によれば、漱石の核に潜む「寄席趣味に代表される、江戸的な感受性」が多くの読者に支持される理由とのことです(夏目漱石『坊っちゃん』新潮文庫 解説より)。江戸っ子だった漱石は江戸の落語・戯作(げさく)的な影響もあり、フィクションによって近代人の内面を風刺し、見つめ直す手法をとりました。

坪内逍遥『小説神髄』以降、近代小説の路線では江戸的な感性や倫理観は古いものとされてきました。一方で夏目漱石は作品性の追究だけではなく、読者が共感する、生活の中での倫理観や美しさを見出す感性を作品に描いてきました。その点が今も夏目漱石の作品が愛される理由なのではないでしょうか。

夏目漱石の代表作

夏目漱石の代表作をあらすじとともに紹介します。

『吾輩は猫である』

『吾輩は猫である』は明治38年(1905)発表の、漱石初の長編小説。捨て猫の「吾輩(わがはい)」は英語教師の珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)家に住み着く。苦沙弥の家には美学者や哲学者、理学者たちが出入りして知的な会話をするも猫からすると「駄弁」にも聞こえる。人間の世界、文明開化の時代を猫の視点から風刺した作品。

『坊っちゃん』

明治39年(1906)発表。生まれつき無鉄砲な「坊っちゃん」。下女の「清(きよ)」だけが理解者だった。四国の中学校に数学教師として赴任。いたずらな生徒たちやいけ好かない教頭「赤シャツ」や同僚「野だいこ」などの教師に坊っちゃんは手を焼く。

赤シャツが同僚「うらなり」君の婚約者「マドンナ」を横取りしようとしていることに気がついた坊っちゃんは、同じ数学教師「山嵐」と赤シャツと野だいこの芸者遊びの現場を押さえ、鉄拳制裁を加える。坊っちゃんは東京に戻り、鉄道会社の社員となって清とまた暮らし始める。

『三四郎』

明治41年(1908)の作。熊本の高等学校を卒業した小川三四郎は東京帝国大学に入学。状況途中の車中で、第一高等学校の教師・広田や佐々木、故郷の先輩である理学者・野々宮らと出会い、交流。里見美禰子(みねこ)という女性と三四郎は親しくなるが、彼女は野々宮やらとも交際しており、最後には別の男性と結婚する。都会への憧れや儚い淡い恋愛が描かれる。

『それから』

明治42年(1909)発表。30歳になる長井代助は食うための労働を軽蔑し、大学を出てもふらふらして定職に就かず、親に頼った生活をしている。代助はいまは旧友・平岡の妻である三千代への想いを秘めていた。平岡が関西の仕事を辞め上京してきたことで、代助は三千代と再び出会う。

『門』

明治43年(1910)発表。野中宗助はかつて友人の安井の同棲相手だったお米という女性を奪い、妻にした。それもあり京都の大学を中退し、広島、福岡と移り、役所勤めのために東京に戻ってくる。家主である坂井のもとに、満州に行っていた安井が来る話を聞き、宗助は悩んで鎌倉の山寺に向かう。

『こころ』

大正3年(1914)発表。漱石が当時の日本人のエゴイズムの悲劇を描いた心理小説。大学生の青年「私」は、鎌倉で出会った男を「先生」と呼び、交流を深める。大学を卒業し故郷で過ごす「私」に「先生」からの長い手紙が届く。そこに書かれていたのは、「先生」が学生時代のこと。いまの妻である女性をめぐって親友と三角関係になったことだった。

『道草』

大正4年(1915)発表。漱石のロンドン留学帰国後から作家を目指すまでを題材にした自伝的小説。留学帰りの大学教師・健三のところに養父・島田平吉と養母・お常がたびたびお金の無心にやってくる。健三は2人との関係を見つめ直し、当時の生活を回想する。教師の仕事をしながら妻や親族から変わり者扱いされ、なかなか満足いく生活は送れない。そんな中、健三に原稿の執筆依頼がやってくる。

『明暗』

大正5年(1916)、漱石の未完の遺作。津田由雄は妻のお延と半年暮らしているが、お互い理解し合えずにいる。津田はどちらかというと冷めているが、お延は情熱を求めている。津田の元恋人の女性のことなど、多くの女性の視点を絡めた、十数日間に及ぶ濃密なやり取りが描かれる。

夏目漱石の生い立ち

漱石の感受性には江戸の生まれであること、正岡子規らや東京帝国大学の友人関係、教師の経験、英国留学が大きく影響していたと考えられます。夏目漱石の作品が生まれた背景、生い立ちを見ておくと、より作品の理解を深められるのではないでしょうか。

幼少期の夏目漱石。実家・養家ともに江戸の町名主

慶応3年(1867)1月5日、江戸の牛込馬場下横町 (現在の東京都新宿区喜久井町(きくいちょう))で、父・直克、母・千枝のもとに生まれました。

慶応4年(1868)新宿区の名主・塩原昌之助の養子に。昌之助は明治6年(1873)浅草の戸長(のちの区長)になりました。徳川幕府崩壊の影響で勢いは衰えていたものの、実家・養家(ようか)ともに町の名主の家でした。

漱石は9歳のときに「塩原」姓のまま実家に戻りますが、実父と養父の不和などで「夏目」姓に戻るのは明治21年(1888)、漱石21歳のときでした。

東大などで漢学・英文学を学んだ夏目漱石

夏目漱石は明治11年(1878)東京府立第一中学校に入学。翌年に二松学舎に転校し、漢学を学んだとされています。明治16年(1883)には神田駿河台の成立学舎で大学予備門(第一高等中学校、旧制第一高等学校、東京大学教養学部の前身)の受験準備のため英語を学び始めます。

漱石はほとんどの教科で良い成績を修めていたようです。 明治17年(1884)から大学予備門に進学し、小石川の真福寺の二階に友人と2人で自炊生活をし、その後も神田猿楽町の下宿に友人らと住む生活が始まります。

明治21年(1888)第一高等中学校本科英文学一年に進学し、翌年には正岡子規、山田美沙、川上眉山、尾崎紅葉などを知ります。漱石はとくに正岡子規とは親交を深めました。 明治23年(1890)には帝国大学文化大学英文科に入学し、翌年にはJ・M・ジャクソン教授の依頼で鴨長明『方丈記』を英訳しました。

明治26年(1893)には大学院に進学するとともに、東京高等師範学校の英語教師に。正岡子規とともに京都、松山の子規の生家を訪ねた際、俳人・小説家の高浜虚子(たかはまきょし)と知り合います。

明治28年(1893)横浜で英字新聞を発行していた会社「ジャパン・メール」の記者を志願しますが、不採用に。同年、旧制松山中学に教師として赴任。これが『坊っちゃん』の題材になりました。翌年、熊本第五高等学校に転任。貴族院書記官長・中根重一の娘、中根鏡子と結婚します。

イギリス留学以降、神経衰弱に悩んだ夏目漱石

※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」の利用規約に基づき使用。

明治33年(1900)、夏目漱石は文部省の命令で英語研究のためイギリスに家族とともに留学しますが留学費不足、神経衰弱に陥ります。神経衰弱の治療のために自転車の稽古をしたそう。

日本では「夏目漱石狂せり」という風説が飛ぶように。同年、親友・正岡子規が死去。知り合った化学者・池田菊苗(いけだきくなえ)に刺激を受けて「文学論」を思い立ち研究に勤しみますが、これを知った文部省は漱石の帰国を判断。

明治36年(1903)に帰国し、漱石は東京帝国大学文化大学の講師となり英文学を教えます(前任者は『怪談』の小泉八雲、ラフカディオ・ハーン)。明治38年(1905)『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。この小説は友人・高浜虚子のすすめで治療の目的もあって書いたとされています。

明治39年(1906)には『坊っちゃん』を発表、作家としての上がります。これ以前から悩まれていた漱石の胃痛がこの時期ひどくなります。毎週木曜日に開かれた「木曜会」には若い文学者たちが集まりました。作家・芥川龍之介や久米正雄ものちにここを訪れます。

晩年まで精力的に作家活動を続けた夏目漱石

明治40年(1907)、夏目漱石は朝日新聞社から招聘(しょうへい)され、教職を辞めて新聞の小説記者に。『虞美人草(ぐびじんそう)』、『三四郎』(明治42年)、『それから』(明治43年)、『門』(明治44年)などを連載。

この頃胃潰瘍に苦しみ、吐血が増え危険な状態になります。また五女のひな子を失う悲劇にも遭っています。明治45年・大正元年(1911)には『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』を連載。大正4年(1915)あたりからリューマチに苦しめられますが、翌年糖尿病による痛みと発覚。胃の具合はひどくなる一方でした。

このとき芥川龍之介あての手紙で『鼻』を称賛しています。大正5年(1916)胃潰瘍が再発・出血し、12月9日に永眠。雑司が谷墓地に埋葬されました。

参考資料:

  • 夏目漱石『坊っちゃん』新潮文庫
  • 吉本隆明『漱石の巨きな旅』日本放送出版協会
  • 五味文彦・鳥海靖 編『もういちど読む 山川日本史』
  • 『別冊太陽 日本のこころ231 夏目漱石の世界』平凡社
  • 新宿区 夏目漱石 生い立ち

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