三島由紀夫の作品(思想と生い立ち)|最後の言葉と死因について語ります

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三島由紀夫は大正14年(1925)に生まれた、昭和を代表する日本の小説家の一人です。

『愛の渇き』『金閣寺』『豊饒の海』などの代表作を持ち、『近代能楽集』などの戯曲・作品の多くは諸外国語に翻訳され、存命中に二度ノーベル文学賞候補になるなど世界的にも評価されていました。

昭和45年(1970)、自衛隊市谷駐屯地で立てこもり割腹自殺をするという衝撃的な最期を迎えました。

三島由紀夫について概略

  • 名前:三島由紀夫(みしまゆきお)、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)
  • 何で有名?:小説『金閣寺』『豊饒の海』などの作者として。作品は諸外国に翻訳される。
  • 生年:大正14年(1925)1月24日
  • 没年:昭和45年(1970)11月25日
  • 出身地:東京市四谷区永住町二番地(現・東京都新宿区谷)
  • 最終学歴: 東京大学法学部卒業
  • 代表作:『仮面の告白』『愛の渇き』『潮騒』『金閣寺』『サド公爵夫人』『豊饒の海』など。

三島由紀夫の生い立ち

小説家・三島由紀夫、本名・平岡公威(ひらおかきみたけ)は大正14年(1925)1月24日、東京市四谷区永住町二番地(現・東京都新宿区四谷)に生まれます。

父・平岡梓(あずさ)と母・倭文重(しずえ)の長男でした。父・梓は東京帝国大学を卒業し、農商務省に勤務する官僚でした。母・倭文重は開成中学校長の次女、定太郎は福島県知事・樺太(からふと)庁の長官を歴任するなど平岡家はエリート一家でした。

祖母の夏子は生まれたばかりの三島を親元から離して自分で育てました。夏子は坐骨神経痛に響くので音の出る玩具は禁止し、三島は立ち居振る舞いも制限されたようです。夏子の部屋で三島は絵本を読んだり、レコードを聴いたりして過ごします。そのおかげで読書少年になった幼き日の三島由紀夫ですが、病弱でもありました。

昭和6年(1931)、三島は学習院初等科に入学。戦前の学習院は陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)がかつて院長をしていたこともあり、体力向上の行事が多くありました。病弱な三島はついていけず、欠席しがちであまり成績は良くなかったようです。 

昭和12年(1937)ようやく三島は祖母のもとを離れ、両親や妹たちが住む渋谷の借家に移ります。この頃から本格的に詩や小説を書き始めました。

「三島由紀夫」のペンネームの由来は?

16歳で書いた『花ざかりの森』を三島が国語教師の清水文雄に見せると、清水が関わっていた同人雑誌『文芸文化』に掲載されることになりました。まだ中学生だったので当時の三島由紀夫=平岡公威のために「三島ゆきお」というペンネームが考え出されます。

ペンネーム「三島由紀夫」の由来ですが、「三島」は『文芸文化』の編集会議が開かれた静岡県修善寺に向かう途上にある三島駅から。そこで清水文雄が「富士の白雪」を見たため、「三島ゆきお」という名前が浮かんだそうです。古代の神事で使われた国名「由紀」に、清水と公威二人で相談して「夫」という字をあてて「三島由紀夫」が完成しました。中等科では公威の文才は認められ、成績も向上します。

昭和19年(1944)、太平洋戦争のさなかの9月に学習院高等科を主席で卒業、父の希望で東京大学法学部法律学科に公威は推薦入学します。入学して二週間後に『花ざかりの森』が単行本で刊行。翌年の敗戦は一家が疎開していた世田谷区豪徳寺で知りました。

敗戦後、三島由紀夫は大蔵官僚に

日本が敗戦した昭和20年(1945)の10月、最愛の妹・美津子がチフスにかかり17歳で亡くなってしまいます。看病に明け暮れた三島は、美津子の死に号泣したそうです。また一時結婚の可能性があった女性が婚約したことを知り、三島は落ち込みます。

三島は批評家、作家の佐藤春夫や中村光夫に作品を持ちこむも評価されませんでした。ただ川端康成は三島の『煙草』という作品を高く評価し雑誌『人間』を紹介しました。これを足がかりに三島は作家活動を本格化させようと思い立ちます。

しかし父・梓は三島が文学に入れ込むことに反対していました。三島の祖父、父と続けて東京(帝国)大学の法学部を出て官僚になる道を進んだ背景もあります。 父の意向を無視できず、三島は昭和22年(1947)に大蔵省(現:財務省)に入省。しかし生活は文学が中心で、昼間働いて帰宅した後はずっと小説を書いていました。疲労のあまり駅のホームに転落するとさすがに父・梓も折れ、三島は辞表を出し、大蔵省を翌年9月に依願退職することになります。

大蔵省退職前に、河出書房から長編描き下ろし小説の依頼がありました。三島はこれに応え、終戦後の失恋や、同性愛・サディズム・性的不能をテーマにした私小説『仮面の告白』を書き上げます。続いて大阪近郊の豊中の農園が舞台の『愛の渇き』を上梓。

昭和25年(1950)には実際にあった闇金融「光クラブ」がテーマの社会派小説『青の時代』、昭和26年(1951)には大胆な構成でホモセクシャルのアンダーグラウンドを描いた『禁色(きんじき)』を発表。昭和29年(1954)発表の『潮騒』は健康的な男女の恋愛を描いた小説で、発売されるやベストセラーとなり東宝で映画化もされました。

三島由紀夫は30代から肉体改造

三島は30代に入ってからボディビルで肉体改造を始めます。幼少期より病弱だった三島が

“もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動『ボディ・ビル哲学』”

でした。『潮騒』を執筆する前にギリシャへ向かって以降、知性が大きくなっても肉体が伴わないことへの問題意識が三島にはあったようです。

肉体の鍛錬は晩年まで続き、剣道やボクシングなども三島はたしなみました。三島の肉体改造はマッチョイズムやナルシシズムとして揶揄(やゆ、からかい)の対象にもなることがありますが、その後の三島の活動や文学とこの肉体の問題は切り離せません。

例えば昭和25年(1950)に実際に起きた事件から材を取った『金閣寺』(1956)。三島は学僧による金閣寺の放火事件を美への「行為」とみなし、「肉体/行為」「言葉が現実に先行すること」など自己の問題性をこの事件を通して描き出しました。 『金閣寺』は読売新聞紙上のアンケートで昭和31年(1956)のベストワンとなり、翌年読売文学賞を受賞しています。戯曲『近代能楽集』(1956)『鹿鳴館』(1957)も発表。

肉体改造の後はマスコミに多く露出するようになり、俳優として演劇や映画『からっ風野郎』への出演、写真のモデルなど活動の幅を広げていきます。

※補足:『金閣寺』の主人公・溝口は重度の吃音で、「現実が言葉に先行し」て自分の世界に閉じこもっていました。三島由紀夫は祖母に閉じた部屋で大切に育てられたものの病弱で、生活の作文を学校で求められた際におとぎ話を提出するなど「言葉が現実に先行し」ているようでした。

溝口と三島は対照的に見えますが、同じく肉体的なコンプレックスがあり、金閣寺の放火やボディビル・俳優活動など(もしくは後年の演説から切腹の流れ)「行為」によって現実や美に対抗しようとする面は共通するように見えます。

戦後社会へ強い疑念を持った三島由紀夫

昭和34年(1959)川端康成夫妻の媒酌で、三島由紀夫は杉山葉子と結婚。長女・紀子が誕生します。『鏡子の家』を同年に、その後も野心的なSF小説『美しい星』(1962)、『午後の曳航(えいこう)』(1963)などを発表。昭和40年(1965)、自らが原作・制作・監督・主演を務める映画『憂国』の切腹シーンが話題となり、ヒットします。

『豊穣の海』を連載開始。仏教の唯識論(ゆいしきろん)や夢と輪廻転生をテーマとした4巻構成の大作でした。昭和41年(1966)戯曲『サド侯爵夫人』が第24回芸術祭賞演劇部門受賞、同年芥川賞選考委員になります。

三島は昭和42年(1967)に自衛隊に体験入隊。間接侵略に対抗する民兵の組織化を構想。「祖国防衛隊」をつくろうとし、財界に資金提供を求めたり、訓練指導を自衛隊調査学校の山本舜勝に打診したりしました。民兵構想はやがて三島の私兵的な「楯の会」に変化。

昭和43年(1968)、ノーベル文学賞を川端康成が受賞。この回と過去2回、三島由紀夫も候補になっていたとされますが、三島はすぐに川端を讃える手紙を周囲の人に見守られる中、書き上げました。

この昭和43年(1968)は戦争や安全保障をめぐり、日本を含めた世界中で反対運動・暴動が起きた年でした。 1月にはベトナム戦争で北ベトナム人民軍が、南ベトナム軍とアメリカ軍に一斉攻撃した「テト攻勢」で米軍の優位が揺らぎ、米国内で反戦運動が開始。

4月にはアメリカの黒人公民権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで暗殺され、人種暴動が発生。 5月にはフランス各地の学生たちによる大規模な反体制デモ、いわゆる「5月革命」が飛び火し、イタリア、ドイツ、トルコ、ブラジルなどで学生による反体制運動が広がります。日本でも東大紛争など学生運動が活発化しました。

東大の学生運動の中心にあった全共闘(全学共闘会議)と三島は昭和44年(1969)に討論会を行います。右翼・左翼といった思想の違いはあれど、戦後社会の現実を否定する立場は共通していました。昭和43年、昭和44年の国際反戦デー(10月11日)、大規模なデモが予想されたため、三島由紀夫は楯の会が機動隊の先遣隊として出るものと考えていました。

実際はそうはならず、機動隊だけの力で冷静に鎮圧しました。否定すべき戦後社会の課題がより大きくなってきたと感じた三島は、サンケイ新聞にこんな文章を寄せています。

“私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう(「私の中の25年」サンケイ新聞/昭和45年7月7日夕刊)”

三島由紀夫の演説と割腹自殺は世界に衝撃を与えた

戦後社会の軋みと今後の日本へ危機を感じた三島由紀夫は、楯の会会員に決断を迫ります。昭和45年(1970)11月25日、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖と三島は決起。三島はNHKとサンデー毎日のジャーナリストに「市ヶ谷会館に来てほしい」と伝えます。『豊穣の海』最終回の原稿を雑誌『新潮』の編集者に送るよう家事手伝いの女性に三島は託すと、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かいます。

益田兼利総監に5人は面会。彼らが持っていた日本刀について総監は訪ねました。三島らは鑑定書を見せ刀を抜きます。それを総監が儀礼通り褒め返すと三島は手ぬぐいで刀をぬぐいました。その合図で三島以外の4人は総監の口をふさぎ、椅子に縛り上げ、部屋の入り口にテーブルでバリケードをつくりました。三島たちは全自衛官と市ヶ谷会館にいる楯の会会員を本館前に集合させ、三島の演説を聞かせることを要求。さもなければ総監を殺害し自害するとしました。

三島たちはかけつけた自衛官たちを日本刀で切りつけ怪我をさせました。テレビは大々的にこの様子を報じます。「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正はない。諸君は武士だろう。自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と三島は演説。 演説を終え「天皇陛下万歳」と三唱をし、三島は総監室へ戻ると、持っていた短刀で切腹。森田が日本刀を持って介錯(首を切り落とすこと)を試みますが果たせず、古賀が代わりにやり切ります。森田必勝もその後、自決。残った小賀正義、小川正洋、古賀浩靖は逮捕されました。三島由紀夫はここに45歳の生涯を閉じました。

12時30分すぎ、NHKはテロップで三島由紀夫の自決を報道。アメリカ・旧ソビエト連邦・ヨーロッパ各国など世界中でこのショッキングなニュースを報じました。

この前年、三島由紀夫は川端康成に手紙を送っていました。

“小生が恐れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。(中略)生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら頼りにさせていただいてをります(昭和44年8月4日付け 川端康成宛封書)”

※小生……自分をへりくだっていう言い方。

三島の訃報を知った川端康成は大変ショックを受け、このような文章をしたためています。

“「私はただなんとか諫止するすべはなかったかと悔むばかりである。(中略)自分が親愛し尊敬する作家ほどかへつて自分に理解がおよばぬと思ふふしはある。私にとつて横光利一君の文学がさうであつた。三島君の死から私は横光君が思ひ出されてならない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうか」”

参考文献

  • 別冊太陽 日本のこころ175 三島由紀夫』(平凡社)
  • 三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫) ほか

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