【考察と解説】新世紀エヴァンゲリオン『エヴァ』が生まれた虚構性について

アニメ

庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年のTVアニメ(全26話)、1997年の劇場版、2009年以降の新劇場版と続く長寿コンテンツです。キャラクターデザインを手掛けた貞本義行氏による漫画版もあり、アニメとは異なる結末を迎えています。漫画以外にもゲーム、フィギュア、グッズ……と展開され『エヴァ』は今でもファンの多い作品。

『新世紀エヴァンゲリオン』にはSFや心理学、『旧約聖書』やユダヤ教の伝説など膨大な引用があり、謎の設定が多いです。庵野監督によれば「ありとあらゆる人が見たときに、自分の鏡となって返ってくるような作りになっている(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)」。

謎を謎のまま解釈し、キャラクターの言動やストーリー展開、エヴァや使徒のバトルを楽しむのが『エヴァ』の真っ当な楽しみ方だと思いますが、あえて『新世紀エヴァンゲリオン』の根幹にあるテーマを考察するならば、それは「大人になること」だと考えました。あくまで1つの解釈です。

『エヴァ』企画書にあるテーマの解説。子供たちに自分で現実の正義・愛を考えてほしい

1997年に発売された『ニュータイプ100%コレクション 新世紀エヴァンゲリオン』では、庵野監督・スタッフがプレゼンした、制作前の企画書を見ることができます。その「全体を通してのテーマ」のページには、

観客である子供たちが本企画・アニメーションという「夢の中にある現実」を観て、「自分の意思で生きること」とは何かを感じ取ってほしい、と願っているのです。また私たちは、子供たちが成長し大人になったとき、自らの「理性」で「現実の正義と愛」を考えてみてほしい、と願っているのです。

とありました。また企画書にはこうあります。

主人公は子供以上、大人未満

『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジは14歳の設定です。第二次性徴期で体が大人になろうとし、学校などで社会との関わりも増えてきますがまだまだ親には依存してしまうことがある年齢。ただ、シンジの場合は4歳のときに母が「消失」し、父・ゲンドウと離れて暮らすようになり、親に甘えることができずに育ちました。それゆえに、エヴァに乗ることで父や、「保護者」であるミサトたち大人への承認欲求が見え隠れします。

庵野監督が大泉実成氏や竹熊健太郎氏と『エヴァ』について語った『スキゾ・エヴァンゲリオン』によれば、この「子供」は単にシンジたちのことだけではなく、戦後の大人たち(庵野監督自身と同世代)と漫画・アニメの「オタク」のことも同時に指していると考えられます。

『エヴァ』における「大人になること」とは、自分たちのバックボーンにある「虚構」の手段で現実を変化させること、自分以外の人も愛せるようになることではないか。『スキゾ・エヴァンゲリオン』の庵野監督の発言などから、それらについて見ていきます。

虚構という外部で内面を規定するオタクと、『エヴァ』発表・1995年の時代背景

庵野監督

『スキゾ・エヴァンゲリオン』の中で庵野監督は自身の世代についてこう語っています。

僕らの前の世代には、戦争というかなり大きく組み上げられたイベントがありますからね。生き死にまで賭けた相当ハードなイベントじゃないですか。これに参加したら、精神的な影響ってものすごく大きいと思うんですよ(中略)戦後派の人がそれからすごく頑張りましたよね。高度成長期に入って、今度はおかみに逆らう不貞な輩が増えてきた

僕らはそれを見て、なんて馬鹿らしいんだろうって思ってた。(中略)でも、いま当時のフィルムとか見るとすごく熱気があってうらやましいと思うんですけど(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)

「おかみに逆らう不貞な輩」というのは、1960年代に日米安全保障条約に反対してデモ・学生運動を行った人たちを指しています。庵野監督はそうして国に対して働きかけする上の世代の姿を批判的に見つつも、何か一つの信条があって熱を上げられることに一方でうらやましさやコンプレックスも感じていたようです。

テレビ万能時代に生きたものの宿命ですね。もっと認識すべきだと思うんですよ、僕らには何もないっていうことを。世代的にスッポリ抜けている。テレビしか僕らにはないんですよ。

いまは情報が平べったくなってしまっているから、そんな状況の中で『エヴァンゲリオン』は生まれていると思う。(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)

『新世紀エヴァンゲリオン』には庵野監督が影響を受けた『ウルトラマン』『デビルマン』など数え切れないほどのアニメ・漫画・特撮などの引用があります。それは庵野監督にとって、ポップカルチャーが1つの世代的な拠り所であったという理由もあるでしょう。

僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定はできない(中略)それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。そこの部分なんですよね。コピーをするときに自分の魂をこめる。(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)

『エヴァ』作中に搭乗する汎用人型決戦兵器「エヴァ」は「アダム」もしくは「リリス」という巨人(使徒)のコピーでつくられています。しかし魂は空っぽでした。そこにシンジの母・ユイなど、別の人間の「魂」が入っています。これはコラージュでしかものをつくれないながら、その中に自分の魂を入れるという、庵野監督の考えも反映されていそうです。

『エヴァ』が生まれた1995年の虚構性の解説

虚構の組み合わせでしか現実に働きかけられない。でもそれで何か変化を起こせないだろうか、というのが『エヴァ』制作の動機の一つと考えられます。

漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』1巻の最後に、庵野秀明監督からのこんな文章が寄せられています。

私は、この物語が終局に迎えた時、世界も、彼らも、変わっていて欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。 それが、私の正直な「気分」だったからです。 (貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン1』角川コミックエース)

この虚構性はエヴァが作られた、1995年の時代背景にもあるといえます。

1995年には、1月に(当時は)戦後最大級の地震・阪神大震災が起こり、高速道路がなぎ倒された光景は現実のものとは思えないものでした。また3月には日本中を震撼させたオウム真理教事件の犯行を指示した松本智津夫(通称・麻原彰晃)が逮捕されました。オウム真理教は「ハルマゲドン」という最終戦争が起こるといい、信者を拡大していました。麻原彰晃が空中浮遊できるなど、虚構が人を引きつけていました。背景には1999年に恐怖の大王がやってくるという、「ノストラダムスの大予言」の流行など、90年代にはオカルトブームがありました。

※オウムや1995年の虚構性を考えるには、大澤真幸(まさち)氏の『虚構の時代の果て』が参考になります。

1995年3月発売のゲーム『クロノ・トリガー』も、1999年に世界崩壊する未来を見て主人公・クロノたちがタイムトラベルを繰り返す話ですが、そこには1999年に隕石が落ちる(世界が崩壊する)という、時代的なイメージの共有があったとも考えられます。『エヴァ』でも、2000年に大質量隕石の衝突で世界人口が半減する「セカンドインパクト」が起こります(実際はゼーレ・ゲンドウが起こした事件)。

庵野監督による『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「虚構vs現実」でした。「ゴジラ」が現れる、嘘のような本当の事態にどう人間が現実的に集団で対処できるかを描いていました。『エヴァ』では敵の使徒や目的について、シンジやミサトたち現場の人間は何も知らされていません。でもこれもよく分からないエヴァに乗って戦わなくてはいけない。命令をするゲンドウや秘密機関「ゼーレ」の本心は分からない。ゼーレたちは『死海文書』というコードネームのもとに、「人類補完計画」という人間や世界が虚構のように書き換わってしまう計画を進めています。

『王立』『トップ』『ナディア』の時とかの、過去に文句を言ってきた嫌味な連中というイメージがゼーレ委員会にはあった。そこで突き上げをくらう碇ゲンドウ。(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)

庵野監督が当時所属していた制作会社ガイナックスや制作委員会、クライアントにあたる企業や人、アニメの制作現場がいわば『エヴァ』の登場人物には投影されている側面があります。

虚構をつくる人間が「嘘みたいな現実」と葛藤する。その中で何ができるのか。碇ゲンドウが漫画版で「自分の足で地に立って歩け」(自立しろ、大人になれ)という、唯一といってもいいシンジへのアドバイスをします。それは虚構を通して現実を生きろという庵野監督から同世代、その下の世代へのメッセージなのかもしれません。

『エヴァンゲリオン』テーマの考察。エディプス・コンプレックスの克服(他者を愛せるか)

もう一つ、『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマの根底にあると考えられるのが「自分以外の人も愛せるようになること」。

『機動戦士ガンダム』のモビルスーツのコクピットもそうですが、『エヴァ』のエヴァンゲリオンのエントリープラグは、母親の子宮のメタファーといわれることがあります。シンジが搭乗するエヴァ初号機は、シンジの母親・ユイが「溶けて」います。親子ゆえに強く神経がシンクロし、真価を発揮します。

『エヴァ』の登場人物・綾波レイは、碇ユイの体のクローンです。旧劇場版の終盤、人類補完計画の中でシンジはレイ=母(ユイ)と一体化しようとします。しかし、レイとの対話の中で、人と理解し合えない苦しみがあっても他者の存在をシンジは欲します。シンジが解放されると、そこにはエヴァ弐号機のパイロット、惣流・アスカ・ラングレーがいます。シンジは衝動的にアスカにまたがって首を絞めてしまいます。結局シンジは変われず、相手が手を出せないときに他者を拒絶してしまいます。そんなシンジに向かってアスカは「気持ち悪い」と吐く。そこで旧劇場版は終わります。

ここには母という自分を無条件に愛してくれる存在にとどまるのか、自分とは血の繋がらない他者も愛せるか(関われるか)というテーマが見えます。

父親を殺して母親を犯すというエディプス・コンプレックスの話ですけれど、僕もこれをスタートする時同じだなと思った。シンジが父親を殺して、母親を寝取る話ですから。

オリジナルな母親はロボットで、同年代の母親として綾波レイが横にいる。実際の父親も横にいる。全体の流れをつかさどるアダムがもう一人の父としてそこにいるんです。そういう多重構造の中でのエディプス・コンプレックスなんですよ。やりたいのはそこだった。(村上龍の)『愛と幻想のファシズム』なんです。思想的なところではこの小説と同じところはあると思いますね(中略)一番感動したのは、あそこで鈴原冬ニという主人公が、いまの総理大臣を殺そうとした時にすごく父親みたいな感じがしたんです。俺は父親を殺し、日本っていう母親を犯すんだって思う(庵野秀明 大泉実成編・『スキゾ・エヴァンゲリオン』 /太田出版より)

庵野監督の発言にある「エディプス・コンプレックス」とは、ジークムント・フロイトによる発達心理を論じた際使った概念。ギリシャ神話のエディプス(オイディプス)王が由来です。エディプスは、自分の母エレクトラと知らずにその人を愛し、自分の父を結果的に殺してしまいます。そのように母親への愛情を強く持ち、父親に無意識にも嫉妬する心理をエディプス・コンプレックスといいます。

ちなみにアスカの「気持ち悪い」というセリフは、アスカ役の声優・宮村優子氏に庵野監督に「夜中に目を覚ましたら見知らぬ男が自分を襲えるのにただ自慰をしていたらどう思う?」といった質問をした返答から来ているようです(以前放送していたTV番組『BSマンガ夜話』より)。そう考えると最後のアスカのセリフは旧劇場版の序盤、アスカのはだけた胸を見て自慰をして「最低だ」とつぶやくシンジに対してのリアクションと考えられます。また、相手が無防備な状況でこそ相手を拒絶しようとする(アスカの首を絞める)も果たせないことについてかもしれません。

いずれにせよアスカの態度は真っ当な反応で、シンジとアスカという他者同士がたとえ傷つけあってもコミュニケーションを諦めずに生きて行かなければならない、ということが示されているのかもしれません。

『新約聖書』の言葉でいうとエヴァのテーマは「汝の隣人を愛せよ」なのかも。

まとめ

以上はTVアニメ・旧劇場版、漫画版の『新世紀エヴァンゲリオン』の解釈のため、新劇場版『シン・エヴァンゲリオン:||』でどんな結末を迎えるかは定かではありません。

新劇場版『Q』では初号機(≒母)に乗ることを禁じられ、最後には強制的に「自分の足で地に立って歩け」の状態になっています。

ゼーレやゲンドウのシナリオもよく分からないですし、時代を経て『エヴァ』の物語の意味も変化したとも考えられます。とはいえ『シン・エヴァンゲリオン:||』を観る前に、また旧シリーズを見返すのもまた一興ではないでしょうか。

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