アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)
1788年2月22日〜1860年9月21日(72歳)
ポーランド・リトアニア共和国グダニスク(ダンツィヒ)出身。
国籍=ドイツ。
哲学者。
主著は『意志と表象としての世界』。
名言=「運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する。」
『ショーペンハウアー』の名言・格言
心の迷いを消してくれる。
数々の名言を連発しているショーペンハウアーさん。
その中でも『ショーペンハウアー』の名言をご紹介していきます。
富は海水のようなものだ。
飲めば飲むほどに渇きをおぼえる。
名声についても同じである。
孤独は優れた精神の持ち主の運命である。
卑しい人たちは、偉人の欠点や愚行に非常な喜びを感じる。
運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する。
孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。
なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから。
男同士は本来、互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である。
なんびとにもせよ、まったく突如として、人は生きているのである。
あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。
人生の幸福にとっては、我々のあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。
天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い。
善、愛、高潔な心を動かしやすい行為や愛の業を行わせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならない。
幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。
人は通常、金を貸すことを断ることによって友を失わず、金を貸すことによってたやすく友を失う。
謙譲というものは、平凡な能力を持つ人間の場合には単なる誠実であるが、偉大な才能のある人間の場合には偽善である。
人は、その生涯の最初の四十年間において本文を著述し、続く三十年間において、これに対する注釈を加えていく。
読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである。
世間普通の人たちは、難しい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり、権威ある言葉を引用したがる。
永遠は一瞬の中にある。
我々は、他の人たちと同じようになろうとして、自分自身の4分の3を喪失してしまう。
才人は、誰も射ることのできない的を射る。
天才は、誰にも見えない的を射る。
結婚とは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。
世論は振り子の運動の法則に従う。
人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。
つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである。
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。
どのような運が降りかかろうと、喜びに浮かれることのないように、悲しみに暮れることのないように、万物は流転し、そして運もまた、いつ変わるとも知れないのだから。
強い人間は自分の運命を嘆かない。
人間は孤独であるかぎり、彼自身であり得る。
知は力なり — とんでもない。
きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆になけなしの知識しかなくても最高の威力をふるう人もある。
人生の情景は、粗いモザイク画に似ている。
この絵を美しく見るためには、それから遠く離れている必要がある。
間近にいては、それは何の印象も与えない。
時はよく用いるものには親切である。
すべての人間は、他人の中に鏡を持っている。
虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は沈黙にする。
金銭は、人間の抽象的な幸福です。
だから、もはや具体的に幸福を享楽する能力のなくなった人は、その心を全部、金銭にかけるのです。
紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
宗教とは蛍のようなものだ。
光るためには暗闇を必要とする。
名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。
学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人である。
誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。
熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものになる。
食べ物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
悲しみのほぼすべては他人との関係から生まれる。
人はなんでも忘れることができるが、自分自身だけは、自分の本質だけは忘れることはできない。
船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。
一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である。
軽信というものは、善良に生まれついた人に具わる特徴である。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。
音楽とは、世界がその歌詞であるような旋律である。
人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。
医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものと見る。
我々は朝を生の本質と見、これを神聖に扱わなくてはならない。
普通の人々は時間をつぶすことに心を用い、才能ある人間は時を利用することに心を用いる。
人々は閑暇を犠牲にして富裕を得る。
だが、富裕は自由な閑暇があってこそはじめて望ましいものとなる。
富裕のために自由な閑暇を犠牲にしなければならないならば、私にとって富裕が何になるだろうか。
礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合いながら、非難しまいという暗黙のうちの協定である。
人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である。
われわれのすべての災禍は、我々がひとりきりではいられないことに由来する。
信仰は愛のようなもので、強制することはできない。
読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。
人間は、自分の頭脳や心を養うためよりも何千倍も多く、富を得るために心を使っている。
しかし、私達の幸福の為に役立つものは、疑いもなく人間が外に持っているものよりも、内に持っているものなのだ。